明日香風人
私観 万葉集は万葉人の合唱組曲
Vol.23 唯一の唄
万葉歌人といえば額田王、大伴家持、山上憶良、柿本人麻呂、等の名前が浮かびます。中でも万葉集に掲載されている歌人で、その数が群を抜いているのが、大伴家持です。長歌、短歌あわせて、およそ480首あります。およそというのは、本人の作品かどうか判定のつかない歌もあるので、こういわれています。柿本意図麻呂も比較的多く、長歌が約20首、短歌が60首余りあります。その逆に万葉集に、一首だけしか掲載されていない人物も何人かいます。ま、忘れ去られた作者、作品と言いますか・・・今回はスポットを一首のみの作者、作品にあててみようと思います。
① おみなえし秋萩折れれ玉鉾の道行きづっと乞はむ子がため
(1534 石川朝臣老人)
大意
おみなえしや、萩の花を手折っておくといいよ。旅の土産はないのかとせがむ、愛しい人のために。石川朝臣老人とありますが、その人となりは全く解っていません。
② 我が背子がやどの橘花を読み 鳴くほととぎす見にぞ我が来し
(1483 奄 君諸立 )
大意
お宅の庭の橘の花が見事に咲いたので、その花にひかれてホトトギスが鳴くのを、私は見に来たのです。この人物も誰だかわかっていません。
最後に、
③ 倉橋の山の高みか夜隠に 出で来る月の片待かたき
(1762 弥弥女王)
大意
倉橋の山が高いからでしょうか、夜遅くならないと、月がなかなか出てこないから、月など待っていられない。じれったくて・・・。この人物もはっきりしないうえ、全く同じものが間人大浦の作として他の歌集に出ているとか、パクリとは言わないまでも、当時にもあったみたいです。全三首で、私が感じるのは、胸に迫ってこないなあというもので、一首しか掲載されていない理由が、そのあたりにあるのかも・・・です。
Vol.22 恋忘れ貝
万葉集には数多く「恋忘れ貝」と呼ばれる貝が詠われています。この貝は、はたしてどんな貝なのでしょうか?
① 暇(いとま)あらば拾いに行かむ住吉の岸に寄るという恋忘れ貝
(1147 柿本人麻呂歌集より 作者未詳歌)
大意
暇があったら住吉の岸辺に打ち上げられるという、恋を忘れることのできる貝を拾いに行きたいものです。
この若者は恋心が相手に通じなくて、疲れてしまったのでしょうか。この恋忘れ貝は俗に言われる「磯のアワビの片思い」のアワビの事です。ハマグリやアサリなどは上下二枚の貝が合う形ですが、アワビは貝が一枚なので、合わないところから、その名が出たとも言われています。万葉集には作者未詳歌に男性が詠んだとされる、片思いの和歌が多く記されています。
② 紀伊の国の飽等の浜の忘れ貝我は忘れじ年は経ぬとも
(2795 作者未詳歌)
大意
紀伊の飽等の浜の忘れ貝ではないけれど、私はあなたの事は忘れないでいたい。どれだけ歳月が過ぎても。
かなり重症の片想いの様です。ここまで思い込まれた女性の対応はいかがなものだったのでしょうか。この若い男性も半ばあきらめながらも最後の気持ちを振り絞って、自分を奮い立たせているのかとも思います。
更に
③ 伊勢の海女の朝な夕なに潜くという鰒の貝の片思いにして
(2798 作者未詳歌)
大意
伊勢の海女がいつも朝や夕べに食べるためにもぐって採るという、その鰒の貝のようにいつも片思いばかりで
もう愚痴の世界です。千三百年前の若い男性と、現代の若い男性の恋模様は変化してるのでしょうか。それとも・・・どうなんでしょう。
Vol.21 男の不実をなげき怒る女歌
いつの世にも恋を仕掛けて、そのあげく逃げてしまう男たちがいるとみえます。万葉の世界も同様で、特に作者未詳歌の中に多く存在します。
① 我が命し長く欲しけく 偽りをよくする人を 捕ふばかりを
(2943 作者未詳歌)
大意
私の命は長くあって欲しいと思っています。なぜなら私に嘘っぱちばかりを言ってたぶらかした、あの男を捕らえてたっぷり懲らしめることが、私の生きている証だから・・
かなり厳しい感じですが、恋や愛を絡めると言葉はどうしても軽くなり甘さがつきものになりがちです。私にも思い当たる節もあります。
② 人目多み直に逢わずてけだしくも 我が恋ひ死なば誰が名のらしも
(3105 作者未詳歌)
大意
人の目が多いからと言って、私と逢おうともしないあなた。もしかして私が恋に狂って死んだりしたら、そのことで立つ浮名はどこのどなたさんなのでしょうか
かなりのいら立ちの様子です。この時代、万葉集には人の目と口を気にして、恋愛がうまく運ばないという歌が、上流社会から庶民の間で数多く作られています。「人の噂も75日」という言葉もありますが、周囲を気にする男女が多かったようです。
③ 阿須可川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも
(3544 作者未詳歌)
大意
阿須可川の川底が濁っています。その川底と同じように、あなたの心の底が濁っているのも知らなくて、二人きりであなたと共寝してしまったことがとても悔しくてなりません。
これは時代がどうであれ、現代にも通じる変わる事のないものなのでしょう。男女の仲というものはとりわけ・・・
Vol.20 雪・・二態
しんしんと音も無く降る雪は、人に様々な想いを心に浮かべさせます。まして心に淋しさ、哀しさをかかえる時、追憶の世界に身を置きたくなります。大伴旅人もその一人でしょうか、
① 沫雪のほどろほどろに降り敷けば、奈良の都し思ほゆるかも
(1639 大伴旅人)
大意
ふわふわとしたあわ雪がはらはらと降り、地上に着くとすぐ消えて、また、あわ雪が一面に降って・・なぜかじっと見ていると都で暮らしていた頃がとても思い出されます。
このとき、大伴旅人は都から遠く離れた九州の大宰府に居て、しかも九州で妻に先立たれ、独り身で居たから、なおのこと自宅のある奈良をおもい懐かしんでいたのでしょう。
その一方では、
② 我が里に大雪降れり、大原の古りにし里に降らまくは後
(103 天武天皇)
大意
我が里の飛鳥浄御原には大雪が降ったぞ、お前のいる大原に降るのはずっと後の事だ。
それに応えて
③ 我が岡のおかみに言ひて降らしめし、雪のくだけしそこに散りけむ
(104 藤原夫人)
大意
何を言われますか、手前の岡の水神に言いつけて降らせた雪です。そのかけらが落ちたのでございますよ。
軽口の言い合いです。
大原と飛鳥浄御原は直線にして、一キロと離れていないのですから、大雪もカケラも無い話です。また、「夫人」とは、天皇の后・紀・に次ぐ第三夫人としての妻の位の事ですから、この両者の軽口合戦もうなずけます。
同じ雪でも、身分、環境によって思う心のあり様は、これほどの差がつくものでしょうか。哀切と軽口のやりとり・・これも雪の世界の一コマです。
Vol.19 万葉時代の富士山模様
① 田子の浦うち出でてみれば 真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
(318 山部赤人)
大意
「田子の浦が見えるところに出てみると、なんと富士の高い嶺に真っ白な雪が降り積もっているではないか」
これは万葉集の中でも広く知られた一首ですが、この歌とは別に、高橋虫麻呂が富士山を詠んだ長歌の中の一文に「燃ゆる火を雪もち消ちて、降る雪を火もち消ちつつ・・」とあります。とすると富士山は1300年前頃は将に活動している火山だったのだろうか・・と疑問を持ちました。なにぶんその方面の学問には疎い上に、手持ち資料も無いので、やがて勉強するつもりですが。
また、
② 我妹子に逢うよしおなみ駿河なる、富士の高嶺の燃えつつあらむ
(2695 作者未詳歌)
大意
「好ましい娘に会う良い方法が無くて、あの駿河にそびえる富士の高嶺のように、私の胸の炎の火はずっと燃え続けるのだろうか」
更にもう一首
③ 妹が名も我が名も立たば惜しむこそ 富士の高嶺に燃えつつも居れ
(2897 作者未詳歌)
大意
「あなたの名も私の名も、世間にたつ噂で傷がついてはいけないと思うからこそ、あの富士の高嶺の炎のように、あなたを思う心の火を胸に燃やしながら、じっとこらえているのに、あなたときたら・・」
とあります。してみると富士山は現在のようなおとなしい火山ではなくて、当時は活発に活動している火山として、噴煙を盛んに天に昇らせていたのでしょうか。万葉集は私に様々な事を教えてくれます。私にとって、万葉集は単に和歌を集めた歌集ではない存在です。
Vol.18 片想いに心乱れて
「片想い」というのは、男性の方が苦しいのでしょうか、女性の方が苦しいのでしょうか。私には解りかねますが、およそ1300年前の万葉人も片想いに悩み、心が乱れた人も多く、しかも女性が多くの「片想い」の歌を詠んでいます。
① いなと言わば強いひめや 我が背菅の根 思い乱れて恋いつつおあらむ
(669 中臣女郎)
大意
いやだと言われるのなら無理にとは言いません。でも、あなたの事を長い菅の根のように思い続けて、いつまでも恋にこがれているでしょう。乱れた心で・・・
かなり激しい片想いの様子で、将に「コイワズライ」のさなかの状況ですが、
片や・・・
② 恋草を力車に七車 積みて恋ふらく 我が心から
(694 広河女王)
大意
私の心に生えたたくさんの恋の草を刈り取って、その恋の草を七台の荷車に積むほどに、あなたへの恋の思いに苦しんでいます。仕方のないことですけど。
すさまじささえ感じます。具体的表現をまじえているので、その心のあり様がうかがえます。思わずため息をついたりする自分が居たりして、その切なさに耐えるのがつらいとか・・・
③ み空行く月の光にただ一目 相見し人の夢にし見ゆる
(710 安都扉娘)
大意
夜の空をわたる月の光の中で、たった一度だけ見かけた人があなたです。そのあなたの姿が、夢の中ではっきり見えました。
一目ぼれの片想いに、気持ちのゆれが垣間見られます。おそらく彼女は二度と会えないと思いながらも、悩み哀しむ事になるのでしょうか。
三人三様の片想いの女性達、その切なさも三様です。ちなみにこの三人の女性が「あなた」と表現している男性の名は「大伴家持」です。
Vol.17 羈旅の歌、草枕
羈旅(きりょ)の歌という部立ての中の一つがあります。1300年前は、現在と違って旅は生死の瀬戸際の行動であり、今のように泊まるところも確かなものはなく、多くの旅人は野宿を強いられていました。ここから「草枕」という言葉が生まれたのかもしれません。
① いづくにか我が宿りせむ高島の勝野の原に この日暮れなば
(275 高市黒人)
大意
この見渡す限り草原の高島の勝野の原で、日が暮れてしまったら、いったいどこで私たちは宿をとることになるのだろうか、野宿するにしても
また、野宿する場所も見当たらなくて、やむを得ず一晩中歩き続けている様子が感じられる一首もあります。
② つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山 いつかも越えむ夜は更けにつつ
(282 春日蔵首老)
大意
磐余という場所もまだ通り過ぎていないのに、どんどん夜は更けてきても、まだ歩き続けている、遠くに見えるあの泊瀬山はいつ越えることができるのだろうか、この分では・・・
旅人の心細さが伝わってきます。そのような時、旅人の心を横切るのは家に残してきた家族、とりわけ妻の事でしょう。
「羈旅」の歌には、旅人が旅先で妻への思いを詠った歌が、数多く見られます。それは家を預かる妻の方でも同じです。旅に出た夫を家で気遣いしている妻の歌もあります。
③ 神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に
(500 作者未詳歌)
大意
神風の吹く伊勢の浜辺に生えている荻を折り伏せて、夫は旅寝をしているのでしょうか、あの波風の荒い浜辺で。
妻の夫への思いが伝わってくる一首です。想像する事しか出来ない妻の切なさがにじみ出ているように思えます。
Vol.16 雪景色三題
人は雪を見ると、物思いにふける事が良くあります。音もなくしんしんと降る雪に、心静かに様々な事を思いめぐらせて・・・
① 沫雪のほどろほどろに降りしけば 奈良の都し思ほゆるかも
(1639 大伴旅人)
大意
柔らかなふわふわとした雪がはらはらと降っては消え、またはらはらと降りしきる様子を見ていると、以前都で暮らしていた頃が、しきりに思い出されるよ
大伴旅人が奈良の都から、遠く離れた九州の大宰府で帥をしていた時の一首です。老齢の旅人が妻を失い一人で、降る雪を眺めながら、過ぎ去った日々を思い起こしています。
雪景色も旅に出てみたときは、その表情が変わります。
② 富士の嶺に降りゆく雪は六月の十五日に消ぬれば その夜降りけり
(320 高橋虫麻呂)
大意
聞くところによると、富士の嶺に降り積もっている雪は6月15日には消える・・と、そしてその夜また降るというが、その通りだな
高橋虫麻呂が駿河に旅をしたときに感じたままに詠っていますが、万葉人にとって富士山の姿は、奈良では見られない山として、その姿にもひときわ感じるものがあったのでしょう。
更に、雪は風物詩としても様々な思いで人の感情を揺さぶります。大伴家持もこんな歌を詠んでいます。
③ 今日降りし雪に競ひて 我がやどの冬木の梅は 花咲きにけり
(1649 大伴家持)
大意
今日降った雪に負けないぞとばかりに、私の家の冬枯れ状態だった梅の木が、花を咲かせたよ。
大伴家持は降る雪の中で、一輪、二輪の白梅の花をどう感じとったのでしょうか。
この時代花と言えば梅で、雪に負けじとけなげに咲いた花に、そこはかとない春を想い馳せたのでしょうか、春遠からじ・・・と。
Vol.15 挽歌 断腸の悲しき思い
挽歌は「死者を悼む歌」や「辞世の歌」「葬送の歌」を取りまとめた万葉集の部立の一つですが、死者を悼む歌には、時を超えた哀しみが伝わってきます。
① 世間は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり
(753 大伴旅人)
大意
この世は空しいものだと常々思っていたけれども、その事を深く知れば知る程、いよいよますます悲しいものだと感じているのだ
この一首は大伴旅人が61歳の時に妻を失い、さらに妹の夫であった大伴宿奈麻呂の死が重なって、まさに崩れ落ちるような悲しみに沈んでいる時に詠まれたもので、無常観というか悲痛な叫びでないだけにかえって強く悲しさが伝わってくるような気がします。
② うつそみの人にある我や 明日よりはニ上山を弟背と我れ見む
(165 大伯皇女)
大意
現世に生きている私は、明日からは弟の眠っている二上山を弟だと思って、見続けて生きよう
この一首は、実の弟の大津皇子が謀反を企てたとして、持統天皇によって反逆罪で、24歳で処刑された後、二上山に埋蔵された故事によるものです。あきらめと、むなしさが入り混じった肉親の哀しみが感じられます。
先に登場した大伴旅人は731年7月に、孤独のうちに自宅で亡くなりますが、そのときに従者の余明軍の詠んだ歌があります。長年つかえた主人の死を前にしての一首です。
③ かくのみにありけるものを 萩の花咲きつやありと問いし君はも
(455 余明軍)
大意
このような時にも萩の花は咲いているかと聞かれましたが、とても普段のようには答えられるものではありませんでした。
どの歌も、大げさに哀しみ嘆いていないので、その静けさの中に、深い悲しみが漂っているように思えます。
Vol.14 結びの呪術
① 我が妹子が結びてし 紐を解かめやも絶えは 絶えゆとも直に逢ふまでに
(1789 笠金村)
大意
私の妻が心を込めて結んだ紐を絶対に解かない、もし紐が切れたとしても直接妻に会うまでは、自分から解いたりしない。
これは旅に出る時に妻が結んでくれた着物の紐を解かないという決意の歌で「結ぶ」という行為は自分の魂を半分結びこみ、夫の旅の安全を守るという呪術的風習でした。また、「結ぶ」には「ヒトとカミ」との縁結び、無事や幸運を祈るという意味もあります。
② 岩代の浜松が枝を引き結び ま幸くあればまた帰えり見む
(141 有間皇子)
大意
岩代の浜に生えている松に、幸いを願って枝を結んだけれど、もし本当に生きて帰れたら、また見られるだろう
この歌は「有間皇子」が斉明天皇に謀反を企んだとして、熊野に連行されるとき、途中の岩代の浜で詠んだものです。19歳の若者が恐らく死を覚悟していたと思うけれども、万が一生きて帰れたらという、かすかな望みを松の枝を結んで祈った19歳の心のゆれが痛く心に突き刺さってきます。結果は次の日に絞首刑に処されてみることはできませんでした。
③ 白栲の我が紐の緒の絶えぬ間に 恋結びせむ逢はむ日までに
(2854 作者未詳歌)
大意
私の着ている下着の紐が切れないうちに、その紐を恋結びにしておくことにしよう。あの人に逢える日まで、いつまでも。
着物の下紐とは恋を結ぶ呪術でもあったのでしょうか。下着の紐を結ぶぐらい深い仲という意味でしょうか、ともかく「結ぶ」というのは魂の一部分を結びつなぐ祈りの行為だったと考えられます。この古の習慣が、現在でも神社のおみくじを木の枝に「結ぶ」という形でその名残をとどめているのでしょう。
Vol.13 女性の詠む相聞(恋の)歌
秋は実りの季節、男女の仲も実りの時を迎えるのでしょうか。秋の田を舞台にした相聞歌。いわゆる恋の歌も多く読まれています。女性が読む相聞歌をピックアップしてみました。
① 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方に我が恋やまむ
(88 磐姫皇后)
大意
秋の田に立ち込める稲穂の上の朝霧ではないけれど、いつになったら私のおもいはきえていくのでしょう。胸に漂う思いの霧は、晴れていきそうにありません。
「仁徳天皇を思いて作らす歌」とあります。
また、「穂積皇子を思いて」と題詞のある、但馬皇女の歌に
② 秋の田の穂向きの寄れる片寄りに 君に寄りなな言痛くありとも
(114 但馬皇女)
大意
秋の田の稲の穂が実り、片方に寄っているように、私もあの方に寄り添いたいと思っています。どんなに世の中の口がうるさくても
二人の宮中の女性心理に違いがあるのは、磐姫皇后の場合は、仁徳天皇の皇后という身分が広く知られているので、何はばかることなく夫への愛を詠っていますが、但馬皇女の場合は正式ではないので、周囲を気にする女心があり、でも恋心は抑えられない・・そんな屈折した感情が読み取れます。
③ 秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはば そこもか人の我を言成さむ
(512 作者未詳歌)
大意
秋の日の稲刈りの時に、二人がとても近い間柄になってしまったので、世間の人は私たちのことを噂であれこれ言うかもしれません。
作者未詳歌ですが「伝、草嬢」田舎の娘という意味でしょうか・・身分の上下に関係なく、秘めたる恋というか、現代の女性にも通じるかどうかはわかりませんが、微妙な女心が垣間見られる感じがします。
Vol.12 遣新羅使人達の船旅
天平8年6月に新羅に遣わされた「遣新羅使人」達の船旅にまつわる歌から万葉人の世界をのぞいてみる事にしました。
先ず出発に際して見送る家族の視野から・・・その想いです。
① 大船を荒海に出だしいます君 障むことなく 早帰えりませ
(3582 古歌)
大意
荒い海に船を漕ぎ出して、遣いところに行かれるあなたが心配です。どうかご無事で、一日も早く帰ってきてくださいな
妻が最愛の夫を航海の旅に送り出す心配と不安、それに少しの諦めの心情をうたったものでしょう。
そして出発、船は海を進んで・・・その風景。
② 月読の光を清み 夕なぎに水手の声予備 浦み漕ぐかも
(3622 古歌)
大意
清々とした日の光が海に照り映える。夕凪の中を水夫たちが声を掛け合って、浦々を伝いながら船を漕ぎ進めています。
船上の様子がうかがえるこの歌からは、水夫同士が声を掛け合うことで、不安な気持ちを振り払いつつ・・・
そして夜、船泊の時、星空のもとさざ波の音を聞きながら。思う・・
③ 旅なれば思い絶えてもありつれど 家にある妹し想い悲しも
(3686 古歌)
大意
旅をしているのだから仕方がないけど、あきらめてはいるものの家で待つ人の事が思い出されて、とても悲しくてやりきれない
未知の土地に向かって旅をする心細さを夜が連れてきて、それに加えて危険がいっぱいの船旅。この時代ただでさえ旅は生命がけであったので、はたして自分は生きて帰れるのか等、様々な思いが、「遣新羅使人」達の心を、よぎったことは想像にかたくありません
Vol.11 たらちねの母
「作者未詳歌」のうち、男性側からの作が圧倒的に多いのですが、それでも女性側の歌も少数派として散見します。その特色は母に知られると、二人の恋もうまくいかなくなるのではと心配する乙女心が垣間見られる歌が何首か描かれています。
たらちねの母が手離れ かくばかり すべなきことは いまだせなくに
(2358 作者未詳歌)
大意
こんなに切なく、やるせない気持ちになったのは、母の手を離れて物心ついてから初めてです。私は・・・
この歌には初恋なのだろうか、心の中の戸惑いと、今までの母との絆とが入り混じった初々しさが私には感じられるのですが・・・。
その乙女心がもう少し進むと
たらちねの母に障らばいたずらに 汝も我れも事のなるべき
(2517 作者未詳歌)
大意
もし、母に二人の仲を邪魔されたら、せっかく私たちの心が通い始めたのに、それが駄目になってしまうかと思うと、とてもむなしくて・・・
先の乙女より恋の姿が鮮明になってきて、そして更・・・
たらちねの母に知らえず 我が持てる心はよしえ きみがまにまに
(253 作者未詳歌)
大意
じっと私は自分の心を奥にしまっていましたけれど、母に知られようと、知られまいと、もういいです。あなたの思いのままにいたします。
彼女は母より恋を選んだという事です。この三首を見ると乙女心の変化の時間を、なかなかうまく演出しているように思えます。このほかにも母と恋心との間における乙女の思いの揺れを歌がありますが、父親が登場する和歌は母と抱き合わせで父が描かれている一首しか見当たりません。娘にとって父の影の薄さを感じさせるように思えるのですが・・・
Vol.10 作者未詳歌 東歌(女編)
能動的な男性に比べて、やはり女性の東歌は受け身の心情で描かれていますが、実はこの女性バージョンは、女性が詠ったものばかりとは限らないようです。男が自分のイメージに合う女性像を思い描いている風情が感じられる歌が多く、男性が女性の気持ちに扮して作ったものもあるみたいです。
上野の国の東歌に
上つ毛野の茎立折りはやし 我は待たむえ 来とし来ずとも
(3406 東歌)
大意
今はさっぱり来てくれないけれど、あの方が私のもとに足しげく通っていくれるように、上野の佐野の青菜の茎を折ってもっと茂って欲しいと祈りながら待ち続けます。
なんともいじらしい控えめの感じの女性がイメージされます。まさに男性の願望といえましょう。
また、伊豆の国に東歌では・・
我が背子を 大和へ遣りて待つしだす 足柄山の杉の木の間か
(3363 東歌)
大意
大和へ旅立った、愛しい人をただ待つだけの私は、松ではなくて、足柄山の杉の木の間のような存在なのだろうか
この主人公も待つ女のやさしさが、しっとりとした風情で描かれていて、男の求める女性像のある部分を表現しています。
駿河の国の東歌、この作者は女性のようです。
駿河の海磯部に生ふる浜つづら 汝を頼み母にたが違ひぬ
(3359 東歌)
大意
駿河の海の磯部で、どこまでも延びつづける浜つづらのように、ずっとあなたを頼みにし続けて根を張っている浜つづらの様な私は、母さんに背いてしまいました。
なんとなく、うつうつとした思いを男性に向けているようで、母親に対する心のゆれもあって、これは現代にも通じる感情かなとも感じられます。
Vol.09 作者未詳歌 東歌(男編)
万葉集には全体の約半分と言われる2100余首の作者未詳歌が存在します。その特色は土のにおいと言えば聞こえが良いのですが、表現があからさまなのが多く、中でも男性側が詠った和歌には、男女関係を生々しく描いたのが圧倒的です。常陸の国の東歌に
小筑波の嶺ろに月立ちし 間夜はさだなりのを また寝てむかも
(3395 東歌)
大意
月が小筑波の頂に出たから、もうあの子の月経もおわったことだろう、ずいぶん会わなかったからそろそろ寝に行っても良いかもしれない。
大宮人達の作る歌の上品さと比べるべくも無く、でもこれも万葉集の歌です。巾の広さというか、そのものズバリで、東歌の相聞歌には「寝る」という言葉が数多く出てきます。
陸奥の国の東歌にも
安達太良の嶺に伏す 鹿猪のありつつも 我は至らむ 寝処な去りそね
(3428 東歌)
大意
鹿や猪が安達太良の嶺で同じ巣にいる様に、私も今までのように通って共に寝ようとして来るから、寝床にいつでもいてくれよ
詩情等みじんも無く、直接話法そのもので、この類の歌が次々と出てきます。一説にはこれらの歌を参考にして作れば良いという教則本的性質を持っているのが作者未詳歌の役処だったのかもしれません。
そして、駿河の国の東歌にも、
ま愛しみ 寝らく及けらく さ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
(3373 東歌)
大意
可愛がり過ぎていく度も寝てたものだから、そのウワサが有名な伊豆の高嶺の鳴沢みたいに、轟いてしまったよ
場所の固有名詞が変わるだけだ、本質が同じような東歌は、おそらく土地の男たちに歌い継がれているうちに、この形になって行ったものでしょう。俗謡として…
Vol.08 景色を愛でる
「田子の浦ゆうち出でてみれば、真白にぞ富士の高値に雪は降りける」
(三一八 山部赤人)
大意
田子の浦を通り過ぎて、見える富士山は真白で、その高嶺に雪が降り積もっていた。なんと神々しい事か
これはあまりにも有名な一首ですが、山部赤人は吟詠詩人的なところがあり、旅先の風景を数多く歌にしています。
大宮日人達はこの時代、単独で山容を燃せる富士山にはひときわ神々しさを感じたようです。普段奈良あたりで目にする山は低くしかも山脈の連山なので、なおのことだったのでしょう。この山部赤人の先輩にあたる大宮人の高市黒人(たけちのくろひと)も「叙景歌」を詠んで優ぐれた歌人でした。
「桜田へ鶴(たず)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた) 潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る」
(二七一 高市黒人)
大意
桜田の方へ鶴の一群が鳴きながら、渡っていく、また他の鶴の群れも鳴いて飛び立ったよ、年魚市潟の潮が干いたらしい
桜田は現在の名古屋市の南部あたりで、当時は遠浅の入江であったらしいのです。今回紹介したこれまでの二首は、情景描写に徹しているので、なお人々に鮮明なイメージが広がっていくように思えます。
この「叙景歌」に強い人の意思と熱い思いを加えて読まれた一首に、
熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(八 額田王)
大意
待っていた月の出と共に潮も満ちて上げ潮になってきました。さあ熟田津から船を漕ぎ出す時が来ましたよ
熟田津は今の愛媛県の松山市あたりで、朝鮮半島の新羅を助けるために遠征する船団を組んで、さぁ出航だ・・・
というときの一首なので、高揚した気分も加わって、単なる「叙景歌」を超えた歌のエネルギーを感じさせてくれると思えます。
Vol.07 挽歌、旅の哀しみ
万葉集には挽歌という人の死に関わる部立てがあります。挽歌とはもともと棺を挽くものが歌う歌という意味があって、それが万葉集の「辞世の歌」「葬送の歌」等の種類になったと言われています。人の死にはいろいろな形がありますが、万葉の時代の旅はかなり過酷なもので、旅の途中で「往き倒れ」て死を迎える人も多く、その様子を歌ったものも数多くあります。無名な人が旅の途中で生命を落とし横たわっている様子を歌ったものを集めてみました。
柿本人麻呂の一首に、
「妻もあらば摘みても食げし、沙弥(さみ)の山野のうはぎ過ぎにけらしも」
(二ニ一 柿本人麻呂)
大意
もしここにこの旅人と妻がいたなら沙弥の山に生える野草のうはぎを摘んで食べただろうに、もう季節は過ぎてしまったよ
これは人麻呂が石見の国(今の鳥取県)に向かって旅をしている時に、野に横たわり命を落としている人を見て詠っています。
更に別の時に同じ人麻呂が香具山あたりにおもむいた時、やはり野に伏しいる旅人を見て
「草枕旅の宿りに誰が夫が、国忘れたる家待たまくに」(四六ニ 柿本人麻呂)
大意
草を枕にこんな旅先で、いったい誰の夫なのか、家で妻が待っているだろうに、故郷へもう帰れずに、野宿で・・・しかも死ぬとは
そう謡った柿本人麻呂も
「鴨山の岩根しまける我をかも、知らにと妹が待ちつつあるらむ」(二ニ三 柿本人麻呂)
大意
今、自分はこの鴨山の岩を枕として死のうとしているが、何も知らない妻は、私の帰りを待ち続けていることだろう
旅の空で死んだと言われています。この歌を残して・・・、
人麻呂の死については場所も時期も謎で、諸説あるところです。
この時代には旅は生死と背中合わせであったのでしょう。
Vol.06 相聞歌(2)
一方的な激しい恋を詠う、片思いの歌も相聞歌には多く見られます。それも女性の側から訴える強い調子のものが数多くあります。
「君が行く、道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも」
(3724 狭野弟上娘女)
大意:私から離れ、遠くとても長いあなたの行く道を、手繰り寄せて折りたたんで、焼き尽くしてしまうほどの、雷の火が欲しい、そのくらい私はあなたを愛しています。
これは、思う人の中臣宅守が、わけあって越前に流罪となったときに詠んだ歌で、万葉集の中でも際立って激しいものの一つと思われています。
この歌に負けないくらい激しさを感じさせるのが、笠郎女が大伴家持に送ったこの歌です。
「相想はぬ人を思ふは、大寺の餓鬼の後方に額つくごとし」
(608 笠郎女)
大意:私のことを思ってくださらないのがわかっていて、その人を思い続けるのは、大きい寺の餓鬼の背中を拝んでいる様で、どうにも気持ちがおさまりません。
まさに片思いの極みで、このような思いをつらねた一方的恋心を詠ったものを二十四首もおくっています。
受け取った大伴家持の気持ちはどうだったでしょうか。
最後に・・
「かくばかり、恋つつあらずは高山の岩根しまきて死なましものを」
(86 磐姫皇后)
大意:こんなに苦しい思いをして、あなたを恋し続けるくらいなら、いっそのこと高い山の岩を枕にして死んでしまいたい。
仁徳天皇の皇后、磐姫皇后は並外れた嫉妬深い女性と伝えられていて『古事記』に
「足もあがかに嫉みたまいき」(夫の天皇が宮中で使う美しい采女に笑いかけただけで、足ずりしながら嫉妬した)と書かれているほどです。
万葉時代にも激しい感情を持つ女性が多く存在したっという事でしょう。
Vol.05 相聞歌(1)
『相聞歌』つまり、男女の間で愛や恋のやりとりを詠う種類のもので、私は純粋に若い男女の歌垣が『相聞歌』だとばかり思っていました。確かに奔流はそうですが、『相聞歌』にもいろいろなパターンがある事を知りました。
「黒髪に白髪交じり老いゆるまで、かかる恋にはまだ逢はなくに」
(563 大伴坂上郎女)
大意:黒い髪に白髪が目立つようになり、こんな老いぼれになった私は、今までこれほど激しい恋に落ちたことはありませんでした。
これは、彼女が大伴百代という男性の大宮人に送った歌です。まさに「老いらくの恋」そのもので、歳に似合わず激しい歌です。
また、紀郎女が大伴家持に送った歌に
「神さぶと、いなにあらずはやはたかくして、後に寂しけむかも」
(762 紀郎女)
大意:すっかりもう私が老いぼれてしまって、恋どころではないと、あなたをを拒否しているわけではありません。その証拠にあなたをお断りした後、とても淋しい気持ちになるでしょう。
これに対して、大伴家持は
「百年に老い舌出でて、よよむとも我はいとはじ恋ひは増すとも」
(764 大伴家持)
大意:たとえあなたが、百歳になって舌を出して、よぼよぼ歩くようになっても、私は絶対あなたを嫌がったりするどころか、恋しさは増々強くなるでしょう。
紀郎女と大伴家持の「老いらくの恋」の歌のやり取りは、宴会の座興として、その場を盛り上げるために、作られたものだという説があります。
また、大伴坂上郎女が大伴百代に向かって詠った歌も、大伴百代が宴会の席で「老いらくの恋」をテーマにして、集まった一同に作らせた中の一つだと言われています。
『相聞歌』の中には、このようにお遊びの歌も多く、当時の大宮人達の姿がチラリと垣間見られるものも、万葉集の魅力の一つではないでしょうか。
Vol.04 空しきものと知る時し
人はふと、胸の内が空っぽになり、それほど冷たくも無く、さりとて暖かくも無く、風が吹き抜けて行くような、言いようのない哀歓を感じることがあります。「淋しい」とも「悲しい」とも違う、「心」が真空になるというか・・、これは現代に生きてる我々だけでなく、万葉人も同じような哀歓を感じています。
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
(793 大伴旅人)
なににつけても、世の中で生きていくという事は、むなしいものだと、知る時、悲しみというものを、いよいよますます感じるのだったよ
これは大伴旅人が少し前に妻の大伴郎女を失い、また妹の大伴坂上郎女の夫、大伴宿麻呂が死んだという知らせを聞いた時の一首と言われています。大伴旅人64歳の時で、将に心情は歌の如しでしょう・・・時間が止まって・・
・時間が止まってといえば、
古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき
(32 高市黒人)
『大意』
かつて盛んだった楽浪の古い都を見ると悲しい、私は昔の古い都の頃の人ではないのに
廃墟となった近江大津の宮をしのんでの歌ですが、将に廃墟と化した都は時間が止まって、音さえしないのでしょう。失いしものへの無常観・・、
また、万葉人の無常観を詠ったものとして、有名な一首に
世の中を 何に譬へむ 朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし
(351 沙弥満誓)
『大意』
世の中の無常をたとえるとすると港に泊まっていた船が朝漕ぎ出してしまえば、船の白い航跡も残っていないように、人生はそんなものだと思うよ
沙弥は妻子のいる在家の僧の事で、仏門の僧故の無常観ともいえます。
つまり高市黒人、大伴旅人は無常観の中にいるのに対して、沙弥満誓は無常観の外にいて第三者的に見ている感じがします。私はこの三首から人の心のありようは、現代人も1300年余前の人も同じだな・・・と思いますが、いかがでしょうか?
Vol.03 子を思う親の愛
万葉集には、人を愛し、人の死をいたみ、人とのかかわりを喜び哀しみ、楽しむ世界がモザイクのように組み合わさって繰り広げられています。子を思う親の心情を表現したものも多く、庶民の歌としては、
多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだ愛しき
(3373 東歌)
『大意』
多摩川でさらしている麻の布は、私が心を込めて織ったものだから、とても愛着があるけれど、でも我が子を可愛いと思う気持ちには、とてもかなわない。
これは東国の古謡で労働歌と言えるものでしょう。作者未詳歌の一つで、庶民としての身分である女性の母性愛が表現されています。また・・・
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群
(1761 遣唐使の母)
『大意』
旅に出た我が子が、野宿している時に霜が降ってきたら、母の私がいつも暖かく抱いていたように、私の子をその羽根で暖かくなるように包んでください・・・大空を飛ぶたくさんの鶴達よ
これは、下級官吏の息子が、遣唐使の一人として船で旅立つときに、見送る母が歌ったものとされています。先の歌とこの歌は、庶民、下級官吏と身分の差はあっても、子を思う母の心は同じだと感じられます。
では、父親の子を思うきわめつけです。
銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
(803 山上憶良)
『大意』
私にとって、宝は子にまさるものはありません。銀も金も宝玉も、子に比べれば何物でもないのです。
古くはお釈迦様が出家すると前に、息子の「羅睺羅」について語っています。「愛は子に過ぎたる事なし」と。時代を超えても子を想う親の心は「共通で不変」で、現代に通じるものです。
Vol.02 続・序に当たって
万葉集に取り上げられている歌は、一般的に629年から759年迄の、おおよそ130年間の歌が収められています。万葉集第1巻の「巻頭歌」として登場する、雄略天皇の「早春の妻問い」の意味を持つ歌は、天皇の作と言われていますが、何しろ万葉の頃よりおおよそ200年も前の天皇なので、実際は時を超えて歌いつがれた伝承歌謡だたのでは、と考えられているようです。
「古事記」には雄略天皇の求婚話が数多く記されているので、この長歌の作者と考えられたのかもしれません。天皇の結婚は国が栄えることを意味すると考える風潮があり、素朴でおおらかな生命力を感じさせる役割を、この歌は示していると言えるでしょう。ところで、この雄略天皇の歌といわれるものは、万葉集の「部立て」では雑歌の部類に入っています。万葉集では大きく分けて、相聞(恋愛に関わる歌)、挽歌(人の死に関わる歌)、以上二つに関わらない歌を雑歌と、主に三つの部立てになっており、この形式は700年から781年頃にかけて順次整い始め、最終的には奈良朝時代の末に、今、見られるような形に整えられたらしいと言われています。万葉集の作者は、天皇から庶民まで、幅が広いことはつとに知られていることですが、この歌集が成立するにあたっては、複雑でわからない点が多くあります。
全二十巻のうち、一巻から十六巻までを第一部と考え、十七巻から二十巻までを第二部と分けていますが、異論もあると言われています。それだけ万葉集には、解明されていない部分が多いという事でしょう。
このコラムでは、学問的な事はさておき、様々な角度から万葉集の作品を通じて、その合唱組曲に耳を傾け、現代人にも通じる人の心の不変さと、奥の深さを垣間見させてもらいたいと願うものです。
Vol.01 序に当たって
先ず恥ずかしながら「万葉集」はおろか、日本の古典文学に、高校を卒業するまで、何の興味も持たない、つまらない人間でした。大学受験い際して、受験科目が少なく、その時その大学の文学部の倍率も低かったので、「ともかく大学に入れば良いや」ぐらいの気持ちで受験し、戦略叶って見事に合格し、たまたま「万葉集」の講義をしていた先生が人のよさそうな感じだったので、単位とるのも楽だろうと「万葉集を専攻」するという、全くいい加減なところからの出発でした。ですから万葉集にある長歌、反歌、短歌の区別も全く知らない状態でした。長歌は5音と7音を交互に6句以上書き最後に7音で結ぶ形式だとか、反歌は長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容を5・7・5・7・7でまとめたりするもので、長歌の後に、一首から数首書き添える形式を持ち、短歌は長歌と関係無く5・7・5・7・7で詠むものであることを知ったのは、受講してしばらくたった後でした。しかし、万葉集にふれていくうちに、貴い身分の人から庶民にいたるまでの幅広い作品がおよそ4540首余りあり、しかもその中の2100首余りは、作者未詳歌で、その中には古謡や仏足石歌や施頭歌、漢詩なども含んでおり、将に万葉集はこの時代に生きた万葉人の「心」「想い」をかなでた「合唱組曲」だと言えるのでは無いかと、今の私は思っています。先ずは、古事にのっとり万葉集のトップで紹介されている早春の妻問いの長歌から・・・
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岡に 奈摘(なつ)ます子(こ) 家告(し)らせ 名告(し)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて 我れこそ居(お)れ 我れにこそは 告(し)らめ 家をも名をも
(雄略天皇)
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