中島宏

出版一代

私の履歴書

終戦を新丸子の三菱重工の工場で知る

 昭和二十年の夏、つまり日本が敗れた日だが、私は終戦の時は多摩川の新丸子の方にあった三菱重工の工場に勤労動員に出ていて、亀有の家から毎日通った。

 そこでは、スロッターと言う工作機械を使って、厚鉄板の潜水艦用ギヤーを作る仕事をやらされていた。

 失敗してオシャカをつくると、「この国賊」と面罵されて、軍からの配属将校にグループ十人くらい並べさせられ、片端から殴られた。それで、私も失敗したので、殴られまいと、そのギヤl を工場の隅の方に隠していた。いつ、ばれるかヒヤヒヤだった。

 そのうちに、終戦になる。

 実は数日前から、広島、関西の方で特別なすごい爆弾が落ちたらしい、との情報が流れてきた。ある日突然「広場へ集まれ」と言われ、駆け出した。私たちは一番後ろの方だった。話がよく聞こえない。まさか終戦だと思わないから、前の方を見て立っていた。すると玉音放送が聞こえる前の方で、突然男たちが泣き出した、

「これはおかしい」と思い、聞いたら、誰からともなく「負けたl」と言う。そのとき、まず私はオシヤカにした鉄板が気になった。これで叩かれなくてすむと思った。それが一番うれしかった。

 しかしどうやって帰ったか今も分からない。家に帰ると「あっちの方で空襲があって大変だったでしょう」と言われた。

 当時亀有には日立製作所の亀有工場があった。五万人くらいの人が勤労動員されていたが、そこも爆撃されていた。

 終戦の時、私は大学に入って四カ月日で十八歳だった。この年は殆ど学校には行っていない。食べる物はなく、色々な仕事をした。戦後に起業した人たちの誰もが味わった耐乏生活の年だった。

 戦後の焼け跡の新宿や銀座を歩いたが、ものの見事に破壊されていた。しかし、すぐに疎開先から戻った住民が焼け残ったトタンや木片でバラック小屋を建てて生活していた。なかには旧住民でもない者がちゃっかりと居座り、戻ってきた旧住民との聞に「出て行けL 「出ない」の騒ぎが起きた。

 「これは私の土地だ」と言っても、区役所へ行っても書類が焼けているのだから、どこが自分の土地だか分らない。居住権と言う言葉は当時はなかったが、住んでいる人がイヤだと言えば仕方なかった。

 解決方法は、結局土地の半分を居座った者にやり、そこにバラック小屋を建てて住まわせる。「ここはオレの土地」と、いつの間にか居座ってモノにした人もいる。なかには死んだまま戻れなかった者もいるだろうから、居座り得の者が土地を只でもらった。

 新宿に小津喜之助という、昔の万朝報と言う日刊新聞の社長をやっていたインテリの町忌がいた。当時、警察では守れないことが多かった。外国人、なかでも韓国人、台湾人ヤクザがいたからである。日本は敗戦国だから、彼らのやりたい放題だった。警察も外国のヤクザに対抗できなかったので、警察が小津さんに頼んで新宿の土地を守ってもらった。今の駅周辺一帯に露屈を出して仕切った。最後に落ち着いたとき、全部地主に返したそうだ。

 新宿の駅前には、緊楽という、コンクリートの四階建ての建物が一つだけ残っていた。

 聚楽は今でもある。ここは問題なかっただろうか。他の土地では、後で自分の土地になるとは思つてないけれど、生活をしのぐ必要上、焼けトタンを集めて住んだ者がいた。そこには第三国人ももちろん来

た。早い者勝ちだった。

 本当の地主は後で出て来、公図の作成が始まる。中には標識の石が残っている所があるから、皆の立ち合いで改めて土地を決める。今考えると、嘘みたいな話である。

 銀座には三越と服部時計店はあった。占領軍が後で使用するため空爆を避けている。後で服部時計店の地下は進駐軍専用のPX売店になった。

戦後は生きるためまずザラメで綿菓子の機械づくり

 戦後は色んなことをやった。

 戦後間もなく米の代わりにザラメ( 砂糖) が配給されたので、それを材料にして綿菓子を作る機械を自分で設計して作った。生活のため、この綿菓子機械を作って売った。

 でも最初は失敗で、なかなか木調子の機械を完成させるのは難しかった。

 この機械は三十台だけ作って売った。しかし全部は売れなかった。

 出版社をつくったあと、小出君と言う営業マンがいて、私と一緒にやってくれた男で、その人が会社を辞めるときに個人のお金と、退職金代わりに私の背広と、この綿菓子機械二台をやった。

 ラジオの組み立てもやった。早稲田の江戸川の近くに石切橋という市電の停留所があって、そこの前に教習所があった。そこへ行ってラジオの組立を習った。真空管等の部品を買い集めてラジオを作った。そこには仕入れのルートがあった。物々交換みたいなもので、私は米と真空管を交換した。ラジオは組み立てて近くの農家に売る。

 第一号は鞠子君の実家に売った。この家でスイッチを入れると、美空ひばりの歌が流れてきた。いちばん最初の頃の声だ。「子供のくせに大人のマネをして」と批判されていた。

 このラジオは自宅で作るのだが、その頃のハンダが悪くて、なかなかくっつかない。何とか完成し、お米何升かと取り換えた。合計十個くらい作って売った。もちろん故障すると私の家に持ってくる。それを修理する。修理は箱をポンと叩く。すると線がくっついて声が出る。しばらくおいて「直りました」と持って行った。

 出版関係では、最初にやったのが中村徹君の紹介で新宿の山伏町にあった「中等高等通信教育研究所」の出版である。私はアルバイトに行って、ガリ版で印刷する技術を覚えた。字を書くのは中村君。彼はきれいな宇を書く。こっちは字を書くのが好きでない。何しろ地理や歴史、国語が苦手な方だったから書くことは苦痛だった。だから、中村君がガリ版の上で鉄筆を使って文字を刻む。それを私が謄写版でせっせと刷った。そのうちにリズミカルに刷れるようになった。早いときは一時間に千枚を刷った。

 旧制高校の入試問題集は、その当時、蛍雪時代で有名だった旺丈杜も復活してなかった。だから先にやってしまおうと思った。

 方法は、旧制高校の入学試験問題を学校に協力してもらう。まず郵送代を郵便切手を入れて手紙を出す。「送ってください」と。私立の学校は送ってくれるが、旧制二局( 東京) とか、二高( 仙台) 三高( 京都) 七高( 鹿児島) とか、地方のナンバースクールや官立の旧制高校は送ってくれない。それで、取りに行かなくてはいけない。

 幸い大学の同級生の中に田舎から来ている者がいた。田舎へ帰る時に、その人たちに頼んだ。

 杉本君と言う優秀な男がいた。彼と二人で私の部屋で徹夜して、数学の入試問題にヒントを付けて、解答をつくった。「こういう公式をお使いなさい」と。それを一週間くらいの徹夜で全部作ってガリ版で印刷する。その宣伝文を今で言うダイレクトメールで先生宛てに学校へ送る。先生は生徒の希望をまとめて一括して注文書を送ってくれる。結構ちゃんとしたもので、事務費として一割を払ったから、先生は本代から一割引いて送ってくる。

 手数料とは言わず、事務費という名目である。それがミソだった。こっちは「編集、工学士中島宏」である。これは大学を卒業してから出版事業化した。この杉本君は優秀な男で、学生時代にあだ名がルンペンと言った。今も行方不明で連絡付かずである。そうしたら本当にルンペンになったらしい。

白地図の発行がベストセラーに

 私が本格的に出版に興味を持ったものに、白地図のベストセラー出版がある。

 終戦当時は小、中学校共、GHQの指令で歴史と地理の授業が一時禁止となったが、二、三年して解禁になった。ハッキリは覚えていないが、おそらく昭和二十一年か、二十二年の秋だったと思う。当時私の母方の従兄弟の久保寺元雄さんが六本木の小学校だか中学校の先生をしていて、時々遊びに行っていた。ある日彼を尋ねると、丁度地理の授業中とのことで、教室前の廊下で待っていた。その時にたまたま教室内を見たら、先生が黒板に大きく日本の地図の輪郭を描いて、それを生徒が各々のノートにその地図を模写していたところだった。

 地図の模写はなかなか難しく、みんな変な形になっていた。後で聞いたところ、地図の授業は解禁されたものの、戦前戦中に使っていた既製の地図には台湾とか朝鮮が日本領土になっていて赤色に塗られていたので、この地図は絶対使用禁止だった。学校には持参できず使用不可であったので、とても不便だが、こうするしか仕方ないとのことであった。ではガリ版で刷ってやったら良いでないかと言ったところ、当時の原紙は質が悪く、線を書くと二、三ノ枚で破れてしまって駄目だとのこと。それで私はヒントを受けて、早速「日本白地図」と称して、ただ日本地図の各府県の輪郭線を書いただけのオフセット印刷をして、B四判の更紙八枚をワンセットにして、一部五円で売り出した。売る方法は全国の小中学校数万校へダイレクトメールの宣伝文を送る。その結果、一週間後から爆発的大反響で、郵便配達が毎日ひとかかえの数十通の申込書と図書代金の為替が入った封筒を届けてくれるようになった。これはしばらくの間続いた。当時小中学校とも一校の生徒は千人から千二、一二百人いる。一部五円だから一校で約六千円くらいとなる。当時為替は一枚が最高二一百円しか組めなかったから、一校から約二十枚位、為替用紙はそうとう厚く、しっかりした用紙だったので、小封筒がパンパンにはじけそうな厚さであった。

 それが十校で一万二千部。百校で十二万部、干校で百二十万部の、全く予想外の大部数の注文が殺到した。今では嘘のような本当の話だった。 そこで問題が起きた。それは用紙の手配と印刷の能力だ。

 終戦直後は東京の内幸町のNHK五階に、GHQの出版担当部門があった。そこへ出版各社ともゲラ刷りに用紙配給申請書を提出して許可を受けた。そこで用紙の配給許可証を貰い受ける。その量はポンドで表示されていた。体裁の良い言論統制である。問題は印刷所である。まだその当時は印刷所は殆んどが

焼失して、実働している所は少なかった。上野の稲荷町あたりにオフセット印刷専門の桂山印刷所というのがあった。私の仕事は用紙と印刷の手配をすることだった。当時私は兄を社長にして、神田神保町の裏の方の清耕杜というガリ版屋の事務所の一隅を借りて、文化書房という看板をかけた出版社を始めてい

た。因みにこの久保寺元雄さんが書いた「私の歩んだ道」と題する自伝書の中に次のような一文があった。

「長女中島はるの長男の秀則さん、次男宏さんとは従兄弟の中では年令が近く、男同士なので兄弟のように付き合っていた。特に宏さんとは、早稲田大学理工学部に在学中から出版社を設立し、神田の神保町の裏通りで事務員一人から出発し、週刊、月刊「アサヒゴルフ」等を出版して、株式会社産報の社長と

なった。立志伝中の人である。時々会社等に遊びに行ってご馳走になった」とあった。

 そこで私は、その清耕社の貸事務所を足場にして、周りの製本所を廻り、その紹介で出版社からGHQ 発行の用紙配給券を買い集める役目をした。ポンドいくらで配給権を官一うもので、出版社の中には実際に出版するよりも、配給券を貰ってそのまま横流しする会社も当時は結構あった。その閣で買った用紙を使って印刷するのだが、注文部数が多すぎて、なかなか注文に応じられない。私はその印刷所の工場長に特に頼み込んで、一台か二台オフセット印刷機を一日中私専用に貸し切って仕事をしてもらうために、大宮方面の田舎の奥に住んでいたが、そこへ手土産持参で工場長の自宅に行き、頼み込んだことがある。

大学生時代、大田区民新聞を発行

 学生の頃、私は大田区民新聞を出した。広告を取り、記事を書き、出来上がった新聞をリヤカーに積んで運び、各販売店へ委託して歩いた。四頁タブロイド版の週刊新聞だが、新聞の販売店を一軒一軒訪ね歩いて販売してもらった。ところが当時の販売店は悪いのが多い。委託してもお金の回収にならない。

  区民新聞を発行した動機は、毎日の販売店にHという友人の親がいて、それが葛飾区民新聞を出して成功していた。彼は毎日新聞の大手の販売店だから顔が効いたのだろう。私も大田区で似たものを考えた。

  なぜ大田区かと言うと、小出君といって、あとで私の所に入り、よくやってくれた男が羽田に住んでいた。彼の力を借りて売り歩いた。ところが販売店は金を払ってくれない。

  広告料金は私の方で集金に行くが、購読料金が入らないので一カ月でやめた。編集面で大きなお祭りの写真が欲しくて、日比谷公園近くの市政会館の地下に、当時山下太郎で有名な式場隆三という医者が創刊したばかりの東京タイムズがあり、そこに鞠子君の女友達がいた。その人からお祭りの写真を何枚かもらって、それを載せた。私は一つのことをやると、大体みんな赤字になり撤退した。

暦も作って売り歩いた

  戦中戦後は、朝日、毎日、読売の三大新聞購読者は、用紙の関係から定期購読が難しい時代だったので、新聞販売店は年に一度、正月にかけて定期購読者に暦を売りつけるのを習慣にしていた。暦は、御徒町に神宮館という出版社があって、独占していた。そこで私は聖神館という編集社を作って、B 六判、三十二頁くらいの本当に薄っぺらな暦を作り、文化書房で出版し、新聞の販売店に買わせた。新聞販売店は定期読者に買わせる。

  当時、一般家庭では朝日、毎日、読売の三大紙の新規購読がなかなかできなかった。暦の定価五円、原価は五〇銭。「いやだ」と言ったら定期購読を打ち切られる心配があるから、購読者はイヤイヤながら買うことになる。しかし五円で売る物を五〇銭とは安い。こっちは一つの販売店で千部とか、何千部とかまとめて売ってしまう。うまく行くと何百万部という大部数になる。

  都内や近隣は全部神宮館が押さえているので、田舎に行かないと売れなかった。それで段々と地方へ進出した。ついには四国まで売りに行った。当時は宇野と高松をつなぐ連絡船に乗って高松に行った。ところが相手はずるくて、なかなか金を払わない。

  我々の場合は、集金に行くと、まだこれしか集金になっていないといって、ちょっとだけしかくれない。結局、最後は段々減っちゃうから、四国まで集金に行っても採算が合わない。最後はみんなパーになった。

  当時、四国へは、宇野から高松へ船で渡る。米は食えない。畑にはスイカがごろごろある。それを農家から買って食べた。大学三年のことだが、私は兄秀則を社長にして、神保町で文化書房という出版社を立ち上げていた。ここでは女子青年団を相手に「美しくなる方法」という本も出した。神保町の古本屋に行つては色々な資料を集め、私が書き、兄の名前で出版販売した。

  販売先は、各県の市町村、郡とか、所在地の一覧表がある。そこで、その土地の女子青年団御中で発送する。団長が必要な人を集めて、購読料を送金してくれた。

  学校へ送る場合も個人名は分からないので学校御中で送った。

  戦後は色々な雑誌が出た。調べてもらったところ、雑誌では「新生」、「世界」、「リベラル」,「平凡」,「少年」,「人間」,「潮流」,「真相」,「光」,「ホープ」、女性ものでは「女性」,「改造女性」というものもある。

  昭和二十三年以後になると、外国女性の顔を描いた好色軟派ものが出回った。「夫婦生活」,「完全なる結婚」,「性分化」,「リーベ」,「肉体の門」などなど。その一方、戦争の傷跡を描いた「ヒロシマ」,「きけわだつみの声」,「インパール」や、新鮮な洋阿や丈芸作品の映画が出回った。例えば原節子主演の「青い山脈」といった映画である。戦後の女性が解放されて美しくなろうという希望に燃えていた頃であった。

  この他に重複するが、当時私は日本と世界の白地図を作って全国の学校に売って大当たりした。

  しかしこの手の出版物は白地図を除いて儲からず赤字だった。資金力と販売力があったら女性雑誌を続けていたかもしれない。それも私がまだ学生の時だから、この頃から私はこの出版社をやろうと決めていたので就職運動はしなかった。

  ただ、生活のため、次々と事業を興していった。そのうちに、卒業が近づき、卒業論文を書かねばならなくなる。

民権同志会に入り、雄弁会を再興する

  早稲田の理工学部は、高田馬場の裏門の方から入った所にあった。いろんな科があった。私は機械科。中村徹君は電機、野村君も機械科。応用化学とか石油料もあった。ひとクラス五〇人くらいいたと思う。

  その頃私がやったことは、民権同志会を中野正剛の流れを汲んだ連中で結成した。

  三田村四郎や、片方の足がない河野金昇らと一緒である。河野金昇の秘書が後に総理大臣をやった海部俊樹である。その当時、民権同志会に私も参加した。

  中野正剛が東条政権に反対して、憲兵隊に取り調べられた後の昭和十八年十

月二十七日、自宅で割腹自殺した。私は予科の一年生だった。

  中野の流れをくんだ人たちが十五、六人集まった。

  それと同じころ早稲田では、自治会の連中が弁論部を作っていた。永井柳太郎と中野正剛の流れをくむ雄弁会はまだなかった。それで雄弁会を再興しようと十五、六人、各学部から集まった。理工学部からは私と熊坂さんが参加した。リーダーは政経学部の人であった。それで雄弁会を復活させようとやった。総選挙の時は令同各地から応援演説の弁士の依頼があった。それで、北海道から頼まれた男に一人弁士を紹介、派遣した。ところがその男は、落ちたら金を一銭もくれず、借金だらけになった。学生は北海道から帰れなくて、スキー場かどこかでアルバイトをして帰ってきたらしい。それで会議して、これからは頼まれても、当選確実の人のところでないと送るのはやめようということになった。

  今、空手協会の常務理事をやって全国を廻って活躍中の川口さんという人がいる。私と彼は入学してすぐに空手部に入ったが、私はすぐにやめるが、川口さんはずっとやっていて、今、早稲田の親分になり、全国で活躍している。彼も理工学部の出である。私は何でもやってみるが、長続きしない。バイオリンをやったり、中根式速記やお茶や生け花もやった。お茶は裏で、生け花は未生流であった。乗馬もやったりしたが、あまり長続きせず皆短期間でやめた。吟詠部にも入った。ピールを持って田んぼで吟詠した。また卒業後はスキューバダイビングもやったが、みんな長くは続かなかった。しかし若いうちは何でもやってみることだと今でも思っている。

  雄弁会では、能坂さんがデザインしたマークが今でも使われていると久しぶりのクラス会の時、本人から聞いた。近々見に行ってみたいと思っている。

  ついでながら、私は二人の総長の葬儀に参列した。田中総長の時は外の動員に行かず、校内の研究室にいたから参列できた。学院時代には田中穂積総長( 昭和十九年三月死亡)、中野登美雄総長( 昭和二十一年一月死亡) そのあとは島田孝一総長( 昭和二十九年) である。二人の総長の葬式に出席している。

  中野総長の歿後には、次の総長に戦中、自由主義学者として米国へ追放された形となった大山郁夫氏を総長に迎えようとして大山の総長運動に私も参岡して活動した。だがそれは実現ならず、島田孝一が総長になった。

  学生時代は色々な仕事を立ち上げた。

卒論は鋳物研究所横田研究室で溶接関係を

  卒業間際になると、溶接関係研究に入った。早稲田には当時「鋳物研究所」が高田馬場から大学に行く途中にあった。

  私は、昭和二十三年三月が卒業だが、二十二年秋ごろから、卒論用の研究に入った。私は何処へ行こうかと考えていたら、横田研究室の井口さんが研究室の学生募集でクラスに演説にきた。私は行くところが決まってなかったから、そこへ入った。これが私の将来にとって大きな岐路となった。八人くらいが横田研究室に行った。

  ここには平原聡宏先輩がいて、卒業論文が溶接に関係した軟鋼を急速加熱して、さらに急冷すると、組織が変わって固い組織になる。この素材は結局、当時はニッケルが不足していたから戦車などの弾が来ても穴があかないような防弾甲板の代わりになるといって、特別固い金属を作る研究だった。

  それを鋳物研究所の横田研究室でやっていて、溶接にも関係があった。

  通産省の機械試験場が西武新宿線井荻駅の近くにあって、そこに溶接に関係する中村研究室があった。平原さんがそこへ就職していた。

  中村研究室というのは、戦時中木原先生とか東大の仲威雄先生達が溶接棒の性能の検定をやっていて、戦争中はそれの成績によって材料が配給された。その検査をやっていた。溶接関係のある研究室であった。

私は卒論の実験をやらなくてはいけないので、集中的に通産省の機械試験場に行った。そこの設備を借りて、色々な実験を約三ヵ月間ぐらい、それも殆ど毎日のように徹夜でやっていた。

  野村さんなどもほかの研究宰ではあったが鋳物研究所であった。

  そこで、平原さんと知り合った。平原さんという人はそこの中村研究室に在職していた。平原さんの実家は干原証券と言って株屋さんだった。お父さんは山梨出身で平原重吉といって有名な山梨出身の成功者だった。木戸炭鉱といって石炭鉱山も経営していた。戦後間もなく、何も無い時に小型トラック一杯

の石炭をわけて貰ったことがあった。大部助かった。

  現在靖国神社の裏の高台に池坊会館があるが、あれが平原さんの自宅だった。すごい豪邸で、戦後進駐軍の偉い将校の宿舎として接収されていた。暫くしてから返されたが、それを日本人のK・Sという人に貸していた。

  ところがこの男が立ち退かない、家賃はくれないまま居ついてしまった。そのうちに、この男が大阪にゴルフ場を作ったと後で聞いて、それはインチキゴルフ場、だと言ったことがある。

  平原さんはお父さんが亡くなって遺産相続が大変だっただろう。そこで池坊学院に売ったようだ。その後自分は池坊学院の役員になっていた。奥さまはデパート松屋創業者古屋徳兵衛のお嬢様だった。 その後通産省に入り、工業技術白書を出した。昭和三十年頃の白書の中に

「もはや戦援ではない」という有名な言葉があるが、それを書いた人だと言われている。

  平原さんは溶接学会の編集委員をやっていて、そこに編集をやっている山本さんという束大の船舶を出た学生がいた。有名な造船の設計者の子息で、体が悪いので造船所に就職できないでいた。それで、腰掛で学会誌の編集員をやっていた。一年間やっていて、昭和二十三年三月に治った。

  それから造船所に急に就職が決まった。

  すると、学会の編集員がいなくなる。それで誰かいないかとなった。学会誌の編集、それも一応学術論文だから、普通の編集員じゃなく、技術的なことも分かって、編集もできる男ということになる。すると、平原さんが編集委員だから、「中島君がいる」ということになり、それで私のところに連絡がきた。

  私はその時、就職運動はしていなかった。兄貴と神保町で文化書房社をやっているので辞退した。「じゃ白分で断りに行ってくれ」と言う。こっちは困ってしまった。「その溶接学会に、手塚さんという常任理事がいるから」と言われ、断りに行った。これが運命というものだろう。手塚さんに会って断ったが、私も好きだから、手伝い始めたのである。断るどころではない。ずるずると手伝いに入って、そのままアルバイト的に中に入り込んでしまった。だから入社試験もないし、履歴書もだしていない。

  当時の給料は大卒が三五〇〇円。二十三年四月のこと。私はお車代として一八〇〇円もらった。生意気に学生時代から歌舞伎の勧進帳が好きだったので、そのお金で今の幸四郎のお父さんの松本幸四郎の弁慶と十五世市村羽左衛門の富樫、十二世片岡仁左衛門の義経と、そういう歌舞伎のレコード八枚か一〇枚くらいのジャケットレコードを銀座の有名なレコード屋で一八〇〇円で買ってしまった。それからずるずると溶接学会誌の編集の仕事をするようになってしまったのである。

  当時の溶接学会は賛助会員という制度もあったが、主に個人会員で運営するわけで、経営的には大変苦しかった。その時は職員が鈴木さん、大内さんの二人だけだった。私を入れて三人でやっていた。

  その事務所の隣に、幅一〇センチ、縦五〇センチほどの木製の東京通信工業トーツーコーという看板が入り口にハスに立つであった。それが、早稲田の先輩、井深大さんの後にソニーになるとは知らなかった。そんなに社員はいなかった。

  東京通信工業の頃、井深さんは社員に給料が払えないほど大ピンチだったそうで、「銭形平次」の作家、野村胡堂( 井深さんの遠威) から五万円借りて給料を支払ったと聞く。その頃、私は隣のビルで溶接学会誌の編集に入っていた。

  私は三月に卒業したが、卒業写真に私と野村公さんが入ってない。原因は、野村さんと新宿のムーランルージュにショーを見に遊びに行っていて、帰つできたら卒業の記念撮影が終わっていたからである。それで学生部に行って「まるく切り抜いて二人の顔写真を上に載せてくれませんか」と言ったら、「小学生じゃないんだから、そんなことやるか。お前らが悪いんだ」とやってくれなかった。

  わたしと野村さんは卒業写真のないまま卒業し、私は御殿山の愛知産業の会議室を間借りした溶接学会の事務局に入って、編集を手伝うことになる。

「溶接ニュースの」創刊へ

 卒業間際になると、溶接関係研究に入った。早稲田には当時「鋳物研究所」が高田馬場から大学に行く途中にあった。

 私は、昭和二十三年三月が卒業だが、二十二年秋ごろから、卒論用の研究に入った。私は何処へ行こうかと考えていたら、横田研究室の井口さんが研究室の学生募集でクラスに演説にきた。私は行くところが決まってなかったから、そこへ入った。これが私の将来にとって大きな岐路となった。八人くらいが横田研究室に行った。

 ここには平原聡宏先輩がいて、卒業論文が溶接に関係した軟鋼を急速加熱して、さらに急冷すると、組織が変わって固い組織になる。この素材は結局、当時はニッケルが不足していたから戦車などの弾が来ても穴があかないような防弾甲板の代わりになるといって、特別固い金属を作る研究だった。

 それを鋳物研究所の横田研究室でやっていて、溶接にも関係があった。

 通産省の機械試験場が西武新宿線井荻駅の近くにあって、そこに溶接に関係する中村研究室があった。平原さんがそこへ就職していた。

 中村研究室というのは、戦時中木原先生とか東大の仲威雄先生達が溶接棒の性能の検定をやっていて、戦争中はそれの成績によって材料が配給された。その検査をやっていた。溶接関係のある研究室であった。

私は卒論の実験をやらなくてはいけないので、集中的に通産省の機械試験場に行った。そこの設備を借りて、色々な実験を約三ヵ月間ぐらい、それも殆ど毎日のように徹夜でやっていた。

 野村さんなどもほかの研究宰ではあったが鋳物研究所であった。

 そこで、平原さんと知り合った。平原さんという人はそこの中村研究室に在職していた。平原さんの実家は干原証券と言って株屋さんだった。お父さんは山梨出身で平原重吉といって有名な山梨出身の成功者だった。木戸炭鉱といって石炭鉱山も経営していた。戦後間もなく、何も無い時に小型トラック一杯

の石炭をわけて貰ったことがあった。大部助かった。

 現在靖国神社の裏の高台に池坊会館があるが、あれが平原さんの自宅だった。すごい豪邸で、戦後進駐軍の偉い将校の宿舎として接収されていた。暫くしてから返されたが、それを日本人のK・Sという人に貸していた。

 ところがこの男が立ち退かない、家賃はくれないまま居ついてしまった。そのうちに、この男が大阪にゴルフ場を作ったと後で聞いて、それはインチキゴルフ場、だと言ったことがある。

 平原さんはお父さんが亡くなって遺産相続が大変だっただろう。そこで池坊学院に売ったようだ。その後自分は池坊学院の役員になっていた。奥さまはデパート松屋創業者古屋徳兵衛のお嬢様だった。 その後通産省に入り、工業技術白書を出した。昭和三十年頃の白書の中に

「もはや戦援ではない」という有名な言葉があるが、それを書いた人だと言われている。

 平原さんは溶接学会の編集委員をやっていて、そこに編集をやっている山本さんという束大の船舶を出た学生がいた。有名な造船の設計者の子息で、体が悪いので造船所に就職できないでいた。それで、腰掛で学会誌の編集員をやっていた。一年間やっていて、昭和二十三年三月に治った。

 それから造船所に急に就職が決まった。

 すると、学会の編集員がいなくなる。それで誰かいないかとなった。学会誌の編集、それも一応学術論文だから、普通の編集員じゃなく、技術的なことも分かって、編集もできる男ということになる。すると、平原さんが編集委員だから、「中島君がいる」ということになり、それで私のところに連絡がきた。

 私はその時、就職運動はしていなかった。兄貴と神保町で文化書房社をやっているので辞退した。「じゃ白分で断りに行ってくれ」と言う。こっちは困ってしまった。「その溶接学会に、手塚さんという常任理事がいるから」と言われ、断りに行った。これが運命というものだろう。手塚さんに会って断ったが、私も好きだから、手伝い始めたのである。断るどころではない。ずるずると手伝いに入って、そのままアルバイト的に中に入り込んでしまった。だから入社試験もないし、履歴書もだしていない。

 当時の給料は大卒が三五〇〇円。二十三年四月のこと。私はお車代として一八〇〇円もらった。生意気に学生時代から歌舞伎の勧進帳が好きだったので、そのお金で今の幸四郎のお父さんの松本幸四郎の弁慶と十五世市村羽左衛門の富樫、十二世片岡仁左衛門の義経と、そういう歌舞伎のレコード八枚か一〇枚くらいのジャケットレコードを銀座の有名なレコード屋で一八〇〇円で買ってしまった。それからずるずると溶接学会誌の編集の仕事をするようになってしまったのである。

 当時の溶接学会は賛助会員という制度もあったが、主に個人会員で運営するわけで、経営的には大変苦しかった。その時は職員が鈴木さん、大内さんの二人だけだった。私を入れて三人でやっていた。

 その事務所の隣に、幅一〇センチ、縦五〇センチほどの木製の東京通信工業トーツーコーという看板が入り口にハスに立つであった。それが、早稲田の先輩、井深大さんの後にソニーになるとは知らなかった。そんなに社員はいなかった。

 東京通信工業の頃、井深さんは社員に給料が払えないほど大ピンチだったそうで、「銭形平次」の作家、野村胡堂( 井深さんの遠威) から五万円借りて給料を支払ったと聞く。その頃、私は隣のビルで溶接学会誌の編集に入っていた。

 私は三月に卒業したが、卒業写真に私と野村公さんが入ってない。原因は、野村さんと新宿のムーランルージュにショーを見に遊びに行っていて、帰つできたら卒業の記念撮影が終わっていたからである。それで学生部に行って「まるく切り抜いて二人の顔写真を上に載せてくれませんか」と言ったら、「小学生じゃないんだから、そんなことやるか。お前らが悪いんだ」とやってくれなかった。

 わたしと野村さんは卒業写真のないまま卒業し、私は御殿山の愛知産業の会議室を間借りした溶接学会の事務局に入って、編集を手伝うことになる。

木原先生の一言で発行権をもらう

 当時、学会の事務局には大内さんと鈴木さんの二人しかいない。大内さんは内勤専門の男で、鈴木さんは割と営業的だった。だが学会の財政難から鈴木さんは生活力があるからと、手塚さんからリストラされた。

 その後、長い間文通があったが、最後の亡くなるまで、相当の恨みを言っていた。やはり、リストラとなると本人には相当のショックだったのだろう。私はそんな思いから余程の落ち度がない限り、社員はクピにしないことにした。

 その当時、鞠子信義君が遊びに来ていた。

 間もなく片山洋一郎さんが木原先生から頼まれて、先生の東大航空研究所時代の友達の妹の亭主で、アメリカから帰ってきた男で英語が話せるということで、社員一号として採用した。

 鞠子君は目黒無線に入り、早稲田を出て郵政省に入った。農家の次男坊だからのんびりしたさぼり屋で、あんまり役所にもいかず、私のところに遊びに来ていた。

 雑誌はページ数も増え、徹夜が続いた。飯屋で飯を炊く。三越の向かいにカツオのつくだ煮屋があり、それを買っておかずにして食べた。それが一番の御馳走だった。 やがて手塚さんは、浜松町の都立工業奨励館という研究所へ赴任した。手塚さんは日野重工の幹部だった。戦争中、日野重工は戦車を作っていて、戦車の横につける防弾甲板の研究をしていた。嘱託みたいな形で、やめてからも日野重工から手当が出ていたらしい。

 しかし、日本の経済が景気が悪くなってくると、日野重工の仕事は何もしてないわけだから、手当が打ち切られて、それで名古屋の工業奨励館に転勤した。

 ところが、本人がいなくなるから溶接ニュースの発行権を大阪大学の学術論文集とか、そういうものを印刷し、「溶接界」という月刊誌を発行している大阪の日本印刷出版にまかせることにした。当時大阪大学では、岡田賓先生が官立の大学ではじめての溶接専門工学科を大阪大学に作っていた。その後、岡田先生は大阪大学の学長になるが、日本印刷出版の小林積三社長とは、岡田先生が戦争中に疎開するとき、荷物を全部預けるほどの仲だった。そんな関係か日本印刷出版は大阪で学会誌の印刷をやっていた。

その関係で、手塚さんが後を小林社長にやってくれと、「溶接ニュース」の発行権を渡した。

 小林さんは「溶接界」という日本の論文をまとめた技術雑誌を出していた。学会誌よりも一般的な論丈の溶接の技術雑誌だった。大学には溶接専門の教授が何人もいるから原稿を書く人が沢山いた。

東京の私は出先機関みたいになってしまった。だから大阪へ行くと、印刷工場の活字棚のある床のところに布団を敷いて寝かされた。

 その頃はビジネスホテルもなかったし、金もない。しかしこっちは一生懸命に広告を取ってやっているし、編集印刷もしているから、経費がどのくらいかかるか分かる。相当儲けさせているはずだった。それを大阪商人は「儲からん、儲からん」、「エライものを押し付けられた」と皆の前で泣き言ばかり言う。

 ある日、「儲からないのだったら私にくれ」と言った。だけど手放さなかった。儲かっているから離さないのである。その辺で出てきたのが木原博先生だった。

 大阪大学の教授だけど太っ腹の先生だから、ある日、

「小林君、儲からないのだったら、やったらいいじゃないか、中島君にやれよ」

 木原先生がひとこと言ってくれた。

 ほかの教授はみんな日本印刷出版社側なのだけど、木原先生の一言で決まった。それで溶接ニュースの発行権を私がもらった。

 昭和二十四年か二十五年頃のことである。

 大阪の日本印刷出版では「溶接界」という雑誌をやっていて、それの広告担当をやっていたのが、後の産報関西総社長になる植村操さんだった。

日本印刷出版の傘下にある時は、植村氏が私を監督がてら東京に集金に来た。

大阪は本社で、東京は出先だったが、発行権がこっちに来ると、あとは私が大阪支社長として彼を使った。彼は時々いなくなることが多い。

 まだ、日本印刷出版に在籍中のことだが、そこで出版されている「溶接界」に社告が出された。

「植村操は、今後当社とは一切の関係ありませんから」と。

 普通はそんなこと出されないのに、小林社長とは余程気が合わなかったのだろう。彼をクピにした。私は彼は出来る、彼を大阪の責任者にしたいという腹あったから、手塚さんや福田さんの反対を押し切って彼を捜した。

 彼は福知山出身で、父親は新聞記者だった。養子に行く前の名は山之内。植村家に養子に行ったその先で奥さんが死んだ。彼は養子に入ったまま二番目をもらった。その人は中学校の先生だった。私は大阪へ出張しても旅館になど泊まれないから、彼の家に泊めてもらった。代わりに、彼が東京に来ると私の家に泊まる。そんな関係である。

 私は彼を捜し歩いた。やっと見つけた先が福知山のお寺。その本堂の端っこで生活していた。私は連れて帰って、小林さんに謝って、大阪の責任者になってもらった。大阪支社の始まりは、木原先生の紹介で大阪の造船所、佐野安ドックの事務所の一角を借りてスタートした。場所は心斎橋のど真ん中のピルの一室であった。

 彼はよく仕事ができた。当時私たちは普通の広告取りや記者ではなく、経営コンサルタント的だった。色んな情報を各社に教えてやったり、またメーカーと販売店を結ぶ代理店を交渉してやったり、潰れかかった会社を再建してやったりと、力はあった。

 その社員第一号は山崎可津子女史で、結婚して植田姓になり、東京勤務となってから唐島基智三先生の秘書になった。なかなかよく出来る女性だった。

 その頃は遊びも仕事のひとつだった。

 彼は麻雀がプロ級だった。太平という、独立してライバル誌「溶接工業新聞」を作った男がいた。太平君もマージャン上手で、二人で組んでやる。たがいにサインでわかるらしく、二人が組むと強いので、来る人がいなくなった。

 この「溶接工業新聞」という新聞は、私が大阪から「溶接ニュース」の発行権を東京へ貰ってきたある短い時期に、その題名で発行していた。

 植村さんはそれで生活していたわけではないけど、東京に来ると、やはり鞠子君たちを呼んでは私の家で徹夜マージャンをやった。それで私も多少マージャンを覚えた。しかしあまり好きじゃない